立ち止まって考える thinking of life

人生、社会、医学、考え事

「論理的に考える」ということと「認知の歪み」

「論理的に考えろ」とよく言われる.

「はい」と答えるもののじゃあ論理的に考えるってどういうことなんだろうか.

 

理工系学部卒の自分としては「論理的」というのは次のように考えられる.

 

  1. 客観的事実の収集
  2. 事実の分類
  3. 各事実の関連性の分析
  4. ストーリーの構築
  5. ストーリーを確かめるための実証実験

 

こういった風に書くと理科の実験のようだが,これは何も科学の範囲以外に限った話ではなく,日常生活における僕らの思考・行動といったものにも応用できるのではないだろうか.

 

こんな例はどうだろう?今あなたは社会人2年目だ.今いる会社は第一希望の会社ではないが採用してくれたので現在そこで働いている.実はこの会社に入社せずに大学院に進学するという選択肢もあった.

最近,仕事上のトラブルを起こしてしまいあなたはかなり落ち込んでいる.毎日のように失敗を思い出してしまい,大学院に行っていればよかったのかも,会社も辞めようかとさえ思うこともある.

このことを論理的に検証するとしたらどうなるだろうか?

 

1.客観的事実の収集

 ここでは以下の3つが挙げられるだろう.ただし,2つ目の希望云々というものについては主観的要素も入っている.

  • 仕事上のトラブルが起きた.
  • 現在自分は後悔している.
  • 会社を辞めようか考えている.

 

2.事実の分類

 1で挙げた3つの事実をより抽象的概念に置き換えられないだろうか?

  • 仕事上のトラブル;これは現在における「事実」だ.
  • 後悔;これは本人にとっての現在の「感情」の問題だ.
  • 会社を辞めるか;これは現在起きている「思考」だ.

 

3.関連性の分析

 2で挙げた5つの事項の関連性についてシンプルに整理する.

 

 仕事上のトラブル→後悔→会社を辞めるか

 

 これをさらに一般化すると次のようになる.

 

 事実→感情→思考

 

 あまりにもシンプルすぎるくらいだ.

 

4.ストーリーの構築

 3で挙げた関連性からは次のような一般化したストーリーが描ける.

 

「人は,事実に反応して感情が湧く.そしてその感情に即して思考する」

 

5.実証実験

 今回の場合,これを検証する実験はないかもしれない.ただ,過去に同じようなストーリーがあったかというようなことをレトロスペクティブに検証することは可能ではある.そうしたストーリーが数多くあると考えられるならそのストーリーは真実と言っていいのかもしれない.

 

 

 以上,簡単な例ではあるが「論理的」というものを実験してみた.この場合,一時的な感情に突き動かされるような形で,その感情を支持するような思考をし始めたということになる.

 本来,人間は事実を見てそこからどのようにでも思考することが可能なはずである.しかし,大きな感情が先行してしまう場合,その感情を補填するように思考してしまうのではないだろうか.そうしてよりその感情の深みにはまっていってしまうことも往々にしてあるように思う.卑近な言葉で形容するなら「思い込み」というやつである.

心理学や認知行動科学の言葉で言うなら「認知の歪み」というやつなのだろうか.

 

 ただ,「論理的に考える」ということは本当に難しい.科学の実験ならまだしも,自分の人生・日常生活といったことになるとなおさらである.それはおそらく,そこに「自我」「自己」というものが入り込んでくるからなのだと思う.

 この「自我」や「自己」を守るためには事実の解釈などいくらでも都合よく曲げられるものなのである.

 幾らかでもこうした「捻じ曲げ」を減らし「論理的に考える」ためには,自分の感情に気づく訓練が必要になるのだと思う.いわゆるメタ認知というやつか.これはそう簡単なことではないと思うが,訓練次第では身につけられるものだと思う.

 

 

平常心のレッスン (朝日新書)

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not 無い物ねだり but ある物満足

現代社会では他人との比較や競争が当たり前のように行われている。

そうしたことを促すことで経済がまわるからなんだろう。

でも、他人との比較は悪循環を生む。

他人との比較→自分にないものを知る→劣等感を感じる→勝とうとして焦る→焦ると上手くいかない→さらに差が広がる→さらに劣等感を感じる→…

他人との比較は不幸の始まりだ。

もっと言うと、過去の自分や理想の自分との比較でさえも不幸の始まりだと思う。

すなわち自分にないものを意識し過ぎると不幸になるとも言える。

幸せを追求することもまた不幸の始まりかもしれない。今の自分にはないと感じている「幸せ」を追求するということだからだ。

つまり、無い物ねだりをすることは不幸への道というこだ。

じゃあ、どう考えるか。

単純にその逆をいけばよいのだと思う。

無い物ねだりの逆、ある物満足、だ笑

一般的には「足るを知る」というやつか。

今、現状の自分の状態に満足する。

なかなかいい生活じゃん、と思う。

今自分にあるものに目を向ける。そしてそこに価値を感じる。

ただそれだけで、じわじわと満足感が出てくる。

もちろん、欲しいものを手に入れた時のような満足感とは違って地味だ。でもその持続時間は長いように思う。

そんな風にして今の自分にあるものに対して気付いてあげるだけで、少なくとも不幸のベクトルとは逆方向に向かえるんじゃないかなと思う。

貧乏入門

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宇宙から観た人生の話

「自分はここで何やってんだろう?」っていう思いによく囚われるけど、宇宙から観たら全く些細なことではあるわな。時間的にも空間的にも。 そう思うと「何でもいーや」という気分にならなくもない。

宇宙の歴史を24時間とするとしたら人類の歴史はまだ始まってから4時間程度、まして自分の人生なんてゼロに近いのだ。

宇宙の広大さから見れば、自分の存在など取るに足らないものなのだ。

自分以外の他人だってそうだ。

偉いとされる人もそうでない人も、大人も子供も宇宙からしたら違いはないのだ。誤差ほどもない。

自分から見てすごいなぁと思う人も、イヤだなぁと思う人も、宇宙からしてみたら自分と変わらないとても微小な存在に過ぎないのだ。

それなのに、小さなことや細かいことで他人をあげつらったり、妬んだり、比較したりと本当に下らないことだと思う。

それでもなかなかどうして、自分たちは日常の些細な事柄に絡め取られてそれに対して反応して感情を上下させている。宇宙から観たら全く微小すぎることなのに。

そうすることで、実は何の意味もない単調で退屈な人生の中の日常に刺激を増やそうとしているだけなのかもしれない。

人生に生きる価値はない (新潮文庫)

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完璧主義だった自分が適当になった話

自分は高校生の頃まではけっこう完璧主義者だった.

勉強はちゃんと予習するし何か予定がある場合にはしっかりと準備を行う人間だった.

そんな自分がいかにして他人から「適当っすね〜」と言われるまでになったか.

 

 

1.価値観の崩壊するような出来事を経験する

自分の場合,高校の三者面談での出来事だった.詳しくは書かないけど.

今まで自分が意識的にせよ無意識にせよ信じて行ってきたことを全否定されるような出来事を経験する.

あるいは,自分が全く意識せず自然と行っていたこをがなんでか分からないけれど評価される.

そんな経験をすると「あれ?自分がやってきたことって何だったんだろう?」ってなって価値観ががらがらと崩壊.適度に手を抜いて生きていけるようになる.悪く言えば,どの程度であれば大丈夫なのかを知ってしまうってことかもしれない.

 

 

2.やりたいことだけやる

言うのは簡単だけどなかなかね〜,と言われてしまいそうだがやりたくないことをやらなくても案外世の中どうにでもなるものである.

そこに対して罪悪感みたいなものを「勝手に」考えてしまうから面倒なのだ.

自分が心からやりたいこと,興味あること,ワクワクすることを優先的にやる.そうすると他者からの評価とかすっかり忘れてしまうものである.

そうすると完璧を目指そうなんてことにはならない.

しかも,仮にうまくいかなくってもけっこう満足できるのである.なぜなら自分なりにベストを尽くしたと思えるから.

 

「好きなこと」だけして生きていく。

「好きなこと」だけして生きていく。

 

 

 

3.うまくいかなくても自分は死なない

深く悩まないことである,「どうせ上手くいかなくても死ぬわけじゃない」って考える.「どうせダメでも世界が終わるわけじゃない」って考える.

これは高校時代の担任が言っていたことなのだが,どうせ受験に落ちても死ぬわけじゃないからあれこれ不安になるな,っていう話.

別にそれで人生が終わるわけでもないし.起こるかどうかも分からない心配をするよりも今やりたいこと・やらなきゃいけないことに集中することが大事なのだと思う.

 

 

ここまであまり考えることなく適当にずらずらと書いてみた.

「適当人間になったら周囲に迷惑かけるんじゃないか!?」と心配してしまう人もいるかもしれない.でもでも,今まで完璧人間だった人が,まして周囲への迷惑とか考えるような人が,いきなり超絶適当になれるとは思えない.

むしろ「程よい適当人間」になれるんじゃないだろうか.多分それぐらいがちょうどいいだと思う.

 

 

適当教典 (河出文庫)

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人生は瞬間の繰り返し

人は好きなことをしているとき、例えばスポーツ、音楽、旅行などなど、何かの目標に向かっているわけではない。

そのこと自体を楽しんでいる。

そういう時って少なくとも過度なストレス状態にはさらされていない。

 

もしかして、人生ってのもそれと同じように捉えると多少は楽になるんじゃないだろうか。

目標に向かって我慢して頑張るってのも一時的にはいいかもしれない。

でも、人生っていうそれなりに長いスパンで考えるとそれじゃもたないと思う。

そうではなくて、自分が今していることに集中する・楽しむってことが大事なんじゃないかって。

言い換えれば、結果を志向することよりも、過程を楽しむということ。

何かに集中しているときって頭の中がすごくクリアになっている。逆に、過去のことを悔いたり、先の心配ばかりしているときって、次から次へと余計な思考が浮かんで集中はもちろんできないし、頭の中もごちゃごちゃしている。

 

今この瞬間に集中する、楽しむ、その繰り返しが結果的に人生なのかもしれない。

こう考えると、時間とか人生の捉え方そのものが変化してくる。

そもそも時間てものをあまり意識しなくなることができるようになるかもしれない。

 

似たようなことは小池龍之介なんかも著書の中で言っていたりする。ただただその瞬間に集中することが大事だと。そのための練習法が、呼吸に集中する瞑想だとも。

 

考えない練習 (小学館文庫)

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難しいというか慣れが必要なことなのかもしれないけど、考え方・捉え方を変えるだけで何かしら効果はあるんじゃないかな。