立ち止まって考える thinking of life

人生、社会、医学、考え事

承認欲求とかファンタジーとか

1.張り切り人間・押し付け人間が苦手だ

やけに張り切っている人間が苦手だ.昔から.

自分とは直接的には関係のないところで張り切っているのなら,「へぇ〜すごいなぁ」くらいで済む.

問題は自分と関係ある人間の場合だ.職場の人間とか.

張り切ること自体は全く否定しないのだが,多くの人がそれを押し付け気味に言ってくるのだ.

「〇〇くん,こうしなきゃだめだよ」

一応,返事はする.

「はぁ...そうですね」

しかし,実際の自分の頭の中というかこころの中はこうだ.

「なぜこの人は自分の考えを疑うことなく押し付けてくるのだろう?」

『自分の考えを疑うことなく』というところがポイントだ.

思えば,張り切っている人も苦手だが,自分に自信がすごくあるような人間も苦手であるし客観的に見ていてもいたたまれない気持ちになる.

逆に,自分に自信のない人,これでいいのかなぁというくらいに思っている人の方が全然好感が持てる.これも昔から.

 

2.昔は自分もそうだったのかも

実のところ,中学生くらいまでは自分自身もどちらかというと「張り切り型」の人間だったように思う.クラスではリーダー的なことをやることが多かったし人からも頼られるような存在だった.

しかし,いつの頃からかそんな自分に疑問を持つようになり,「張り切り型」をやっている自分に疲れてしまった.

その頃は意識していなかったが,他者から認めてもらいたいという目的が自分のなかにひっそりとあったのだろう.それゆえ,他者,主に教師などだけど,から求められる役割に対して張り切っていたのだろう.

でも,それが徐々に崩れ去り自分のなかの価値観も変わっていった.

「他者から認められるのも,それなりに大事だが,自分のやりたいことって本当はなんなんだろう?そもそも自分って何?」

 といような感覚.

そこからは結構苦しかった.悶々とすることも多々あった.

他人とは違う自分になりたくて,奇をてらってみたり,皆んながやっていることを冷ややかに見ていた.斜に構えていたのだ.

そういう心の状態はしばらく続いた.

それでも,初めての一人暮らしを開始した大学生時代などは,自分自身に素直になっている時間も増え純粋に楽しいなと思えるような友人との時間もあった.

一方で,心の端の方には「自分とは他とは違うんだぞ」という選民意識みたいなのものもまだまだあった.

自分を諦めきれなかったんだと思う.

今考えると,それって本当に生きにくいことだなとも思う.

他者に合わせているのも生きにくいし疲れることではある.

でも,「特別な自分」というものを守るために何かを演じたりとか他人の考え,価値観を素直に受け入れようとしないことで損することもあるし,なにより素直でないということは自分自身の心の負担にもなる.

 

3.ちょっと脱皮して楽になれた自分

今は,そういった状況からは抜け出しつつあるように思う.

少し前までは,自分のなかにこうでなければならない,というプライド,世間体,みたいなものがあった.

だが,人生におけるいろいろな決断をしていったり,付き合う人間の価値観を知ったりすることで,ここ最近は,自分のなかの「よくないべき思考」「世間体」とかが薄れつつあるように思う.

そういった段階にあるからこそ,価値観を押し付けてくるような「張り切り型」人間を接するとこう思ってしまうのだ.

「あー,この人はなんだか張り切っているけど,世間体とか常識とかになんだか囚われているなぁ」と.

まあ要するに,自身の心理状況を相手に投影してしまっているだけなのかもしれない.

でも,投影できているということは逆に言えば,自分のこころの声に気づけている,ということと同義だと思う.

 

他者からの目線・意見,常識,世間体,そういったものを意識してしまっている自分自身に気づいたうえで,それらを意図的に排除してみる.

それを繰り返すことで,少しずつだけども自分のこころの声が聞こえてくる.

もちろん,それが正しいかどうかなんて分からない.

そもそも,人生に正しいとか正しくないなんて根本的には存在しない.

自分で考えて,考え抜いて,経験して,そして決めることが重要なのだ.

何かに気遣って決めているうちは本気になれないし,いくらでも言い訳できる.

自分で決めた,と思えればそうもいくまい.

 

4.生きていくのに必要なファンタジーというやつ

自分で決めたこともまた,ファンタジーだとは思う.要は思い込みだ.

ただ,それがファンタジーだと知らずに盲目的に突き進むよりも,これはファンタジーなんだと認識したうえで突き進む方がいいのだと思う.期待しすぎずに済むから.

ファンタジーとの適度な距離感を保つ,とでも言えばよいか.

ファンタジーをファンタジーと知らずにいると,それがうまくいかなくなったときに手足が出なくなる.その場で立ちすくんでしまう.

でも,ファンタジーをファンタジーなんだと認識できるなら,そういった状況でも一歩引いて自分を俯瞰できると思う.俯瞰したうえで,「あ,あっちにも実は道があったぞ」なんて具合で活路が開けることもあるかもしれない.

 

承認欲求もファンタジーも大事だ.

でもそれだけに依存してしまうような状態では危うい.

そういうことなんだと思う.