立ち止まって考える thinking of life

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「空気を読む」という文化

1,2年くらい前のことか、「KY」という言葉が流行したのは。

最近ではあまり聞かなくなりましたけど。

KY=空気を読まない

ぼくはこの「空気」というやつがとても嫌い。どうして嫌いなのかは自分でもよくわからないのだけども、物心ついた頃から空気というやつにはどうも馴染めない。

それと関連してか、日本では当たり前の文化と言ってもいいであろう「本音と建前」というものも好きではない。

おそらく、思ってることは直接的にはっきりと人に伝える方が自分にとって気持ちよいんだろう。(あまり実践はできていないようにも思うけど)

じゃあ、一体空気って何なんだろうってことで2年ほど前に読んだ本がこれ。

 

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 

発売日が1983年とわりと古いけどもいまだに売れている様子。

日本にはびこる「空気」その考察が実例をもとにして書かれている。

戦時中の軍部の無謀な作戦を行うまでに至った理由が、結局のところ「空気」による意思決定(意思決定と言っていいのかは謎)だったという話はなんだか現代社会にもありがちな例のようで理解がしやすかった。

 

「空気」という実態のないものがその場の人間を支配してしまうことで、論理的思考をストップあるいは押しのけてしまうというのは本当に恐ろしいことだと思う。けど日本人なら誰しも感じたことのあることのような気もする。 

津波が来たら原発はアウトだと分かっていても、どうせ来ないだろうから大丈夫だろうという「安全神話」なんかも論理的思考がストップしていて「空気」によるものなのかなとかとも思う。

 

「空気」が生まれてしまう背景には日本人の「恥」の文化や「他人と同じでなくてはならない」という教育が影響しているんじゃないかと思う。

間違うことは恥ずかしい、知らないことは恥ずかしい、他人と同じであることが安心、そんな考えがベースにあると、それっぽい意見を振りかざされた場合にそれに反対意見を述べるというのが困難になるんじゃないか。結果、むちゃくちゃな意見(たいていそれは感情論とか根性論だと思う)に対して抗することができず空気が形成されるのかなと。

 

こうした「空気」から逃れるためには、「水を差す」ということが大事だ。それはつまりまっとうな、論理的な意見を淡々と述べることに尽きる。ただ、日本で育ってしまった以上これってなかなか難しいと思う。

日本は「個人主義」の社会ではないと言われる。それゆえ個人として意見するということに何か抵抗がある。なので「水を差す」なんてのは慣れていない。それこそKY。

そう考えると、僕らは「個人」としていったん独立したうえで「社会」に参加するという感覚が必要なんだと思う。

 

どうにかしてこういった考えを日々の生活のなかで実践していきたいないとは思ってるんだけど、なかなか。